平和を祈る「ひまわりの会」
戦争体験をされた女性達の戦争体験が本となりました
ごくわずかの人にしか手元には届きません(販売されておりません)
その本が私の手元に届きました。
皆様にぜひ知って頂きたいので、貴重な体験を5回に分けてアップしていきたいと思っております。
今、再び日本人はメディアの暗示によって集団催眠状態にかけられ、第三次世界大戦になりそうな感じです。
犠牲になるのはいつも国民ですよ!!
※太平洋戦争で玉砕した日本兵の詩です。
”もし玉砕して、そのことによって
祖国の人たちが、少しでも
生を楽しむことができればと
せつに祈るのみである
遠い祖国の若き男よ
強く逞しく、朗らかであれ
懐かしい遠い祖国の
若き乙女たちよ
清く美しく、健康であれ”
ぜひシェアをして頂きたい<(_ _)>
~はじめに~
戦後70年が過ぎ、日本は長く「平和」を謳歌してきました
戦争の「痛み」を忘れた日本は愚かにもまた戦争に向かおうとしているようです。
平均年齢90歳の女性達は、当時うら若き女学校の生徒として戦争をくぐり抜け、敗戦後、、物資も食料も不足する毎日を懸命に生き抜いてきました。
風化させてはいけないと、戦争体験を次世代に伝えたいという事で一冊の本ができました。
平和の尊さ、ありがたさをを痛感している私達の「平和という名の花を枯らさないで!!」という叫びが込められています
世界平和の為に自分が何ができるかを考えるきっかけになれば幸いです。
平和を祈る「ひまわり」の会
◎平和の尊さを伝える為に I.Sさん
私は昭和2年(1927年)生まれでございまして、今年89歳になります。
私が4歳の頃、昭和6年(1931年)に満州事変という戦争がはじまりまして、その後、昭和12年(1937年)に支那事変が起こり、それから4年後の昭和16年(1941年)に太平洋戦争がはじまりました。
支那事変とは太平洋戦争を含めて、大東亜戦争とよばれています。
私が18歳の頃にやっと終戦になりましたので、生まれてから成人するちょっと前まで戦争が続く大変な時代を経験してきたことになります。
まさに青春時代が、戦争時代だったわけでございます。
2015年、日本は戦後70年の節目を迎えました。
7月16日、安全保障関連法案が衆院本会議で強行採決されて物議を醸しておりましたが、私は政治のことをどうこう言える立場ではございませんし、政治批判するつもりもございません。
ただ、最近の日本全体の空気感が、私の子どもの頃の大東亜戦争に突入する前の空気感と、とても似ていると感じるのでございます。
このままでは70年間保たれてきた平和が崩れ去ってしまうのではないかという危機感がございまして、戦争体験者として戦争というものがどんなに辛く酷いものであるかという事を戦争の事をよく知らない世代の人達にお話をし、平和の尊さをお伝えしたいと思い立ったしだいです。
太平洋戦争前
小さい頃のことはあまり覚えていないのですが、小学校の頃に満州事変の映画を観た記憶があります。
学校で戦争の映画をみさせられたのだと思います。
子どもの頃はそのくらいで、あまり戦争のことを身近に感じたことはなかったのですが、一番に身近に感じましたのは太平洋戦争ですね。
それが始まったのは、たしか女学校の2年生くらいの時でした。
女学校と言いますのは、当時「高等女学校」と呼ばれていたもので5年制の学校でした。
13歳になる年に高等女学校1年生として入学し17歳となる年に高等女学校5年生となり、それで卒業です。
私はもともと九州で生まれて、10歳までは向こうの学校にいました。
小学校4年生の時に、東京の小学校に編入してきたのですが、それから3,4年が経って太平洋戦争が始まったと思います。
太平洋戦争が始まったときには、よく覚えておりますけれど、12月のとても寒い日でした。
戦争が始まったと聞いたのは、確か女学校の朝礼で広場に並んでいた時です。
その時に、先生からお話がありまして、びっくりというか、怖くなってしまい寒いのと両方でガタガタと震えが来たのを覚えています。
はじめのうちは「日本は勝った」、「また勝った」と連戦連勝のニュースが流れていましたので、そんなに不安もなく、その年の年末年始はふつうに過ごす事ができました。
東京で初の空襲
空襲が始まったのは、かなり早かったですね。
最初の頃、米軍は昼間にやてきて、爆弾を落としていきました。
私の実家で母が病気で寝ている時、昼間にお医者様が往診に来られている間に空襲があったのを覚えています。
そのお医者様は青山に住んでいる方でしたが、先生が自宅に帰られたら空襲で家が亡くなっていたそうです。
先生の家とその隣の2年ぐらいが爆弾で無くなっていたそうなのですが、その頃はまだ焼夷弾ではなかったので、家事にはならなかったのですね。
戦争中の生活
戦争がはじまって2年くらいたった頃でしょうか、戦争の長期化に伴って国民全体が否応なしに戦争に関わらざるを得なくなりました。
私達女学生も例外ではありませんでした。
学校では、まず防空演習。
ゲートルを足に撒いて、防空服を着て防空訓練です。
そして、工場での勤労作業。
いわゆる学徒勤務動員ですね。
学業の方は、ごく短い時間しかやらせてもらえませんでした。
向上だけではなくて印刷会社とか区役所とか、それぞれの生徒が割り振られて、いろんなところに出向いて朝から晩まで働いておりました。
段々と食料もなくなってきまして、ご飯は外来(東南アジアから輸入した米)になって行きました。
その外来が手に入る間はまだ食べられるだけありがたかったのですが、外来は匂いも独特で、触感も日本のお米と異なりますし、しかも量を増やすためにトウモロコシと稗が混ざっておりましたので、お世辞にも美味しいとは言えないご飯でした。
それを毎日食べるものですから、消化が悪くてお腹をしょっちゅう壊しておりました。
卵もバターもお魚もお肉も、だんだん手に入らなくなり、とても貴重な食料でした。
野菜は配給制で購入できたのですが、食糧難になってきますとその配給も大根一本だったりしまして闇取引で買わないと食料は手に入らない状況でした。
闇取引ではお金があっても駄目で、衣類などを持って行って交換をしなければ農家の方は売って下さらなかったのです。
学徒勤労動員で働いていた工場では、何かを削る仕事をさせられていました。
秘密兵器とうことで、それが何か教えてもらえないのです
それで海軍の将校さんが、ずっと工場内を見回りをしていて私達学生も大人の工員さんと同じことをやっていました。
金属を削るので粉塵が舞います。
マスクをしておけば良かったのですけど、私は眼鏡をしていたため、マスクをしていませんでした。
それがいけなかったんだと思います。
学徒勤労動員は体を酷使するうえに食糧不足で栄養失調だったものですから、私は体を壊してしまいました。
軽い肺結核になってしまったのです。
その頃、集団検診で50人のクラスのうち10人くらいは肺結核と診断されていました。
その中には、肺結核が原因で亡くなった方も多数います。
私は運がよく、症状も軽かったため市には至りませんでしたが、、、、
それは確か昭和19年(1944年)頃だったと思います。
そのため、私は軽井沢の別荘に疎開して、一年近く療養をいたしました。
軽井沢というところは土地が肥えていないので、キャベツとニンジンとジャガイモくらいしかなく、毎日そればかりを食べていました。
それでも都会と違って、野菜があるだけよかったのです。
鶏を飼っていた人はいたかもしれませんが、あまりお肉は食べた記憶がないですね。
軽井沢は冬になるととても寒くて、昔は文字を書くのにも万年筆とインクを使っていたのですが、そのインクが凍ってしまうほどでした。
もともと避暑地の別荘として建てた家でしたから、寒い時に滞在することを想定して建てられていませんでしたし、当然暖房の設備もありませんでした。
ですから冬にそこで暮らす事はとても大変な事でした。
療養中は具合が悪くなったら寝込み、少しよくなったら起きあがりという事を繰り返していたのですが、総じて体調が悪かったせいか、あまりその時の記憶が定かではありません。
ただ、はっきりと覚えているのは軽井沢での療養期間中の1944年の夏ころの事です。
当時、日本の戦況はかなり悪化してたようですが、それまで軍部はそのことをずっと隠して続けていたようです。
さすがに不利な戦況を隠せなくなってきたのか、7月にサイパンで日本軍が米軍との激しい戦いの末に全滅したと新聞で大々的に報じられました。
このころから「本土決戦」ということがさかんに言われるようになり、いったい日本はどうなってしまうんだろうと不安な日々を過ごしていたのを覚えています。
東京大空襲(1945年3月10日)
軽井沢での療養を終えて東京に戻って着ましたら、すぐに3月10日の大空襲がありました。
その頃、毎日、米軍の爆撃機B29がやってきて空から焼夷弾を一度に100発ぐらい落としすような感じで攻撃してきました。
空襲が始まると、防空壕へと逃げるのですが、途中焼夷弾に当たらないかとヒヤヒヤしておりました。
殆ど毎日でした。
灯火管制といって、灯りを空に見せていけない、米軍の飛行機から灯りが見えてはいけないと厳しく制限されていまして窓にはカーテンの代わりに真っ暗な布を張って電気も暗くしていました。
ほとんど真っ暗な状態で、お料理をしたり食べたりお風呂に入ったり、そういう感じでございまして、寝る時も、いつも何時に空襲があってもすぐに防空壕に逃げられるように寝間着に着替えないで寝るような日々でした。
幸いに私の家は庭には落ちたのですけど、家に当たらなかったものですから、家は焼けずに残りましたけど、しかし、章句量はしばらくの間は無かったですね。
近所の方で栄養失調で亡くなったかたもいましたし、公職の偉い方も闇取引のご飯を食べなかったせいで栄養失調で亡くなったというニュースも新聞で読みました。
終戦までの5か月間
療養を切り上げて東京に戻ってきて、そのすぐ後に学校が空襲で焼けてしまったものですから、学校も大混乱で卒業できるかどうかも分からず、生活そのものも混乱していました。
そのため、日にちの記憶もぼやけており話が実際とは前後しているかもしれません。
卒業式は別の学校の講堂を借りて行われたようですが、私はまだ十分に回復していなかったので、卒業式には出席しませんでした。
1945年3月10日の終わりごろには、米軍が沖縄に上陸し多数の沖縄県民が地上戦に巻き込まれてお亡くなりになりました。
その頃、米軍の圧倒的な戦力の前に追い詰められた日本軍は最後の手段として操縦する飛行機(あるいは潜水艦)でもって敵艦に体当たりするという冷酷狂気な戦法をさいようしました。
それを行う方々は「特別攻撃隊(特攻隊)」と呼ばれ、彼らは“軍神“として神格化されていました。
しかし、その特攻隊となって命を散らしていかれたのは当時私と同年代の若き男性の方々だったのです。
私の友人や知人にも特攻隊で亡くなった方が大勢います。
その方達の無念を思うと今でも涙が出ます
1945年の5月に日本の同盟国であったドイツが降伏しましたが、日本はその後しばらく抵抗を続けていました。
その結果広島、長崎に悲劇が起こりました。
そして8月15日に終戦となりました。
戦後の混乱と復興期
戦争が終わってもしばらくはいろんなことが混乱していました。
お国復興のために一生懸命に頑張ろうという気運は国全体にあったと思います
私は大学も受験しようと思えばできたのですが、大学には進みませんでした。
胸を患い、体力がなかったですから。
アメリカの軍人たちが日本にやってきて、結核に聞くストレプトマイシンという薬がもたらされたのですが、私にはそれがよく効いたおかげで元気になり23歳の時に結婚することができました。
そして20代の間に3人の子どもを産む事ができました。
23歳で結婚というのは当時では遅かったですね。
大学に行かない人は女学校を卒業したら18歳くらいですぐに結婚していましたから。
戦後もしばらくは食糧難でした。
あと、私はもともと本が好きだったのですが、戦中も戦後も本がなかなか手に入らなくて、私はいつも本が手に入ったらいいなと思っていました。
戦後、焼け野原になった東京でしたが、新橋から銀座にかけて闇市ができ、いつも食料や物資を求める人で混雑していました。
戦争で親を亡くした孤児がいっぱいいましたね。
わつぃの家は飯蔵片町にあり、当たり一帯が焼けたのですが幸い私の家は焼けませんでした。
近くの麻布十番の街は、かなり焼けていました。
延焼といって風に煽られた頬がどんどん家を焼いて、ずっと坂を上って燃え広がっていたのです。
私の家の庭に日本の飛行機が墜落してきたこともありました。
色んな意味で、私の栄は運が良かったのだと思います。
爆弾にもあたる事なく、延焼も免れたのですから。
そのせいでもあり、戦後は人の出入りが多かったですね。
家が広かったものですから、「焼け出されて家がないので一緒に住まわせてください」なんて言う方が、それこそ床屋さんう一家とか、いろんな方々が「助けてください」と言って入ってきました。
困った時はお互い様ですから、私の両親は人助けでやっていたのでしょうが、今考えると普通ではなかったですね。
でもそうやって、皆で助け合って必死で生き延びただと思います。
読者の皆様にお伝えしたい事
戦争中、たくさんの友人や知人が亡くなりましたが、私は命を長らえることができて今日まで生きてこられました。
今こうして当時の事を思い出すと戦争の生活は二度と繰り返したくないと思います
戦争の時の国民の生活というのは非常に悲惨な物です。
いつ死ぬかわかりません。
生と死はいつも隣り合わせです。
今の世の中は、生活のの基本的なものは満たされていますのでどうやってお金を儲けようとか考える人が多いわけですが、当時はそんな事よりも、どうやって生き延びるかということで精一杯。
生きるか死ぬかで皆必死だったのです。
この本をお読み下さっている、私よりも若い世代の皆様に申し上げたい事は
すべては平和があってこそのものだということです。
皆さまには、いろんな夢や希望がおありのことと思います。
でも、それらも平和な社会があってこそ実現できるものです。
皆さまは生まれた時から当たり前のような平和があった時代に育たれました。
それはとても幸運な事だと思います。
残念ながら私達の青春時代は戦争一色でした。
戦争のせいで夢を奪われた若者も大勢います
平和は何よりも大切な宝です。
どうか、皆さんでその宝を守って頂きたいと心から願っております。